戦国時代を強く生き抜いた女たち
大阪城から徒歩20分、大阪市中央区玉造の「聖マリア大聖堂」と「越中井」。この場所に深い関係がある人物が、『細川ガラシャ』。明智光秀の三女として生まれ、波乱万丈な人生を送ったガラシャ。聖マリア大聖堂と越中井は、ガラシャにとって “ゆかりの地”です。
まず、戦国時代と聞いて、皆さんが思い浮かべるのは “武将” ではないでしょうか。織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信、前田利家、徳川家康などなど、いずれも戦国で名を馳せたつわものばかり。しかし忘れてはならないのが、「男だけが戦国を強く生き抜いたわけではない」、ということ。乱世をたくましく生きた女性がいたことを見落としてはいけません。
いつの時代も男の影に女あり、女に生かされ男あり。といったところでしょうか。織田信長の妹「お市」や、その娘である「江」、豊臣秀吉の妻「寧々」、武勇の持ち主「甲斐姫」など、たくさんの女性がいます。
そのなかでも特に、細川ガラシャは、過酷な運命を強いられながらも力強く生きた女性と言えるでしょう。
細川ガラシャの足跡
明智光秀の三女「明智 珠(たま)」として生まれたガラシャは、のちにキリスト(カトリック)教徒となります。きっかけは、ガラシャの夫であった細川忠興(ただおき)の影響。忠興とガラシャは、周りが羨(うらや)むほど仲の良い夫婦だったそうです。
しかし、父である明智光秀が本能寺で織田信長を暗殺して以来、ガラシャは “裏切り者の娘” として世間から冷たい扱いを受けることとなります。忠興のもとを離され、京都(丹後半島)で監禁されてしまうわけです。信長の時代が終わり、しばらくして豊臣の時代が来ると秀吉の気遣いにより、ガラシャは再び忠興と一緒に暮らすことを許されました。
ちなみに、この時点ではガラシャという名前は生まれていません。まだ「珠」という名前で生活していたガラシャ。改名する理由となったきっかけがカトリックへの信仰です。
ひどく落ち込んでいた珠の様子を見て心配した忠興は、彼女に “キリスト”の話をして元気づけました。とはいっても、忠興も信者ではありません。信長の家来であった忠興は、キリスト教に接する機会が多かったのです。異文化の話や国外の話をして、珠を楽しませようとしたわけです。
その一つとして、キリスト教にも深くかかわっていました。はじめのうちは何気なく話を聞いていた珠でしたが、次第に興味へと変わり、やがて教会へ足を運ぶようになりました。
ガラシャの最期
そんな矢先、またもや事件が起きます。秀吉が「伴天連(バテレン)追放令」を出すのです。バテレン追放令とは、キリスト教の信仰を禁止する法律。珠にとって思いもよらない出来事でした。この頃、キリストに対する珠の興味は大きくなっており、いつしか心の支えとなっていたからです。
「この機会を逃せばキリスト教徒になれない」、そう思った珠は、グレゴリオ・デ・セスペデス神父の洗礼を受け、内密に信者となりました。キリスト教徒の証明として「珠」から「ガラシャ」へと名前を変え、自分が信者であることを隠し続け生きることを決意します。ガラシャの由来は、“神の恵み” という意味が込められていたそうです。
それまでのガラシャといえば、気が強く短気で血の気が多い女性でしたが、キリスト教徒になってからは謙虚さを覚え、忍耐強くなったといいます。もちろん、最愛の夫である忠興にもキリスト教徒になったことを隠していました。忠興は秀吉の家来。妻がキリスト教徒になったなど許されるはずもない。夫に迷惑をかけないよう黙っているほかありません。
信長の時代が終わり、やがて秀吉の時代も終わると、戦国時代、最後の大事件が勃発します。1600年、“関ヶ原の合戦”です。夫の忠興は、徳川軍(東軍)に加勢。家康の敵であった石田三成(西軍)は、ガラシャを人質にすることを企んで細川家の屋敷を包囲。はじめは穏やかに説得していた三成だったが、なかなか言うことを聞かないガラシャに苛立ちを感じ、力任せに連れ出そうとしました。
その時でした。人質となって夫の足手まといになるくらいなら・・・。
ガラシャは死を決意します。ですが、キリスト教徒は自害(自殺)することを許されません。自分の手で命を絶つことが許されないガラシャは、細川家の身の回りの警護を務めていた小笠原秀清に命令し、自分の胸を槍で突かせたのです。こうしてガラシャは、38年間の生涯を終えました。
聖マリア大聖堂と越中井
細川家の屋敷跡に建てられた教会が、「聖マリア大聖堂」。ガラシャが命を絶った最期の場所が「越中井」です。胸を槍で突かせる前、ガラシャはこのような言葉を遺しています。
『散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ』
桜は春に咲くから人の心を穏やかにする
ひまわりは夏に咲くから鮮やかさが増す
そして、いずれ散るから美しさを心に残すことができる
咲き続けたままでは誰も美しいとは思わないでしょう
花も人も散る時を心得てこそ美しさを残すことができる
この言葉は、ガラシャが遺した“辞世の句” として越中井の石碑に刻まれています。
ガラシャのたくましさを表すエピソードにはこんな話もあります。
騒動を起こした家来を忠興が刀で斬った際、血の付いた刀をガラシャは自分の着物で拭ったそうです。それから数日のあいだ、ガラシャは血の付いた着物で過ごします。それを見かねた夫の忠興が、
「血の着いた着物で生活していても平気とは、お前はまるで蛇(へび)のような女だな」と問いかけました。
するとガラシャは、
「鬼のような夫の妻には蛇のような女でなければ」
そう答えたとのこと。
本能寺での出来事が起こって以来、不幸な立場にさらされながらもキリストを心の支えとし、力強く美しくあり続けることを信念とした細川ガラシャ。
-散る時を知ってこそ美しい-
最期に魅せたその気高い姿は、夫 忠興に捧げた “最愛” だったに違いないでしょう。