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歴史をたどる散歩デート
春も終わり、いよいよ夏らしくなってきた。今日は、愛知県を代表する戦国時代の合戦場「長久手市」を訪問。愛知県長久手市武蔵塚204番地にある史跡である。戦国時代の足跡を肌で感じられる場所。豊かな自然に囲まれ、歴史好きのカップルには最適な“お散歩コース”となっている。
ここ長久手古戦場は現在より430年ほど前、豊臣秀吉と織田信雄が戦った「小牧長久手の戦い」跡。徳川家康が織田信雄に加勢したことでも有名な合戦だ。
織田信長を父とする信雄。歴史上では次男とされているが、三男という説もある。映画 「清須会議」が公開され、俳優の妻夫木聡さんが織田信雄を演じたことで、以前より認知度が高くなった。古戦場周辺には戦死した豊臣軍 武将の塚や、無名戦士の首塚、家康が軍議(作戦会議)を開いたときに腰かけたといわれる「色金山の床机石」といった史跡が遺されている。
春になれば桜が咲き、秋になれば鮮やかな紅葉を楽しめる。愛知万博が長久手市で開催されたときには、リニモ長久手古戦場駅から徒歩5分の場所ということもあり、長久手古戦場に多くの観光客が訪れた。
長久手古戦場を訪れるのであればおすすめのデートコースとして、「白山林」周辺を歩き、「桧ヶ根(ひのきかね)公園」を経由し、「長久手古戦場(跡)」へと向かうのがよい。
色金山の「床机石」を見学し、そのあと「岩崎城」で休憩。最後に「キッチン う雅亭」でディナーなんていかがだろう。完全に私個人の趣味になるが、このデートコースで「う雅亭」のクリームコロッケとハンバーグ”は外せない。
時間があれば「小牧城」「竜泉寺城」に足を運んでみるのも悪くない。龍泉寺には大型の入浴施設もあるので、気心の知れた仲であればデートの最後に汗を流すのも悪くないだろう。
小牧長久手の戦いの経緯
さて、ここからは小牧長久手の戦いについて復習してみよう。せっかく行くのなら、知っていたほうが100倍楽しめる。だが、全部を話すと長くなるので要点だけを説明する。
そもそも、なぜ豊臣秀吉と織田信雄・家康チームが争うことになったのか。それは、「跡取り問題」がきっかけである。つまり、“相続争い”が事の発端だ。
個の時代、信長の天下統一が目前に迫っていた。しかし、1582年6月に本能寺の変で信長が急死する。信長に代わり、天下を統一する跡取りが必要になった。
そこで話し合いを開く。この話し合いこそ、映画で妻夫木聡が織田信雄役を務めた「清須会議」である。話し合いの結果、信長の三男 信孝が後継者の座についた。
信孝が跡取りになることを強くすすめた人物こそ秀吉である。
清須会議からしばらくして、秀吉は柴田勝家と賎ケ岳(つつじがおか)で争う。これに勝利した秀吉の権力は次第に強くなっていく。
だが、事件が起きた。
織田家の後継者であった信孝が自害(自殺)したのである。自分の縄張りであった岐阜城を追い出され、途方に暮れた信孝は自ら命を絶った。誰が信孝を岐阜城から追い出したのか?その黒幕もまた、秀吉である。この行動に疑問を抱えた信雄は、秀吉に対し不安を募らせた。
これをきっかけに、権力、立場ともに、秀吉が天下取りに一番近い人物となったことは言うまでもない。そんな矢先、信雄が秀吉のスパイ3人を殺害する。当然ながら秀吉は怒った。
「おいおい、やばいことになってきたぞ・・・」、そう感じた信雄は、父の信長と親しい関係にあった家康を小牧城へ招き、秀吉との戦いを相談する。家康は信雄へ協力する意思を示し、小牧・長久手の戦いへと発展するのであった。
小牧長久手の戦いとは?
<長久手の戦いポイント1 岡崎城への奇襲攻撃>
決戦間近、羽柴(豊臣)秀吉は犬山市の「楽田城」にいた。徳川家康と織田信雄は「小牧城」にて豊臣軍をむかえ撃つ。
しかし、家康も秀吉も互いに修羅場をくぐってきた者同士。相手を警戒し、大胆な攻撃を仕掛けることができず、本格的な決戦には至らなかった。なかなか決着がつかない状況を見てイライラした豊臣軍の武将 池田恒興は秀吉に提案を申し出た。
恒興と言えば、ドラマ「信長協奏曲」で向井理が演じた役だ。小栗旬の“つねちゃん”を思い出してしまう。そんな恒興が提案したのは、家康の本拠地「岡崎城」を攻撃してみてはどうかと。
秀吉はこの提案を直ぐに聞き入れ、およそ2万人の大軍で奇襲攻撃を仕掛ける(三好秀次8,000、池田勝入6,000、森長可3,000、掘秀政3,000)。1586年4月6日、それぞれの領土に散らばっていた4つの部隊は7日に春日井市の篠木と柏井に集まり、8日の夜中に庄内川を渡って長久手市を通り岡崎城を目指した。
<長久手の戦いポイント2 家康が感づく>
8日のこと、秀吉の岡崎城攻撃を察知した家康は榊原康政、大須賀康高、水野忠重、丹羽勘介を集め、合計4,500人の部隊に岡崎城へ向かう豊臣軍のあとを追わせた。家康も9,300人ほどの兵を連れ、豊臣軍に気づかれぬよう小牧城を出発し9日の早朝に長久手の「色金山」に到着する。家康は、山の頂上にある「床机石」に腰かけて作戦会議を開いた。